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あっという間に29年目進行中です。
今考えると、いろいろなことがありました。
四半世紀以上ですから驚きです!
映画の勉強をしに、フランスに行ったのもずいぶん昔になります。あれは江戸時代だったかなと思えるくらい。
日本に戻ってからフランス語はほとんど使わないので、忘れてしまいました。
でも、もう一度勉強すればなんとかなるでしょう。きっと。
とはいうものの、時間がない。(時間は作るものだと天の声)
フランス系の会社から仕事が入れば、きっと猛勉強するかもしれません。

パリで一番最初に住んだ地区は16区のRue de la Faisanderieの屋根裏部屋。そこから、ほとんど毎日トロカデロのシネマテックで1日2~3本映画を見るのが日課でした。いまはパリの東、ベルシー駅の近くになり、とても大きな劇場になっています。
いまから考えると、お金がなくても優雅な毎日でした。
いまフランス映画を見るかというとほとんど見ません。おもしろいのがないというのもありますが、嗜好がドンパチモノに移ってしまったというのが最大の理由でしょうか。ストレスたまりすぎです。
最近、WOWOWで1973年の「パピヨン(Papillon)」を見ました。フランクリン・シャフナー監督、スティーブ・マックイーン、ダスティン・ホフマン出演。マックイーンの演技力は秀逸です!そうそう、シナリオがあの有名なダルトン・トランボ。衝撃的な映画「ジョニーは戦場に行った」を作った人。
パピヨンを見てから街を歩くと、赤と白のストライプ柄を着た人を多く見かけます。それを見るたびに、パピヨンが着ていた囚人服と一緒だ!と映画を思い出します。

フランスに留学するまえは、旅行業界紙の編集・デザインをしていたのですが、ルルーシュ、トリュフォー、ゴダールの映画や五木寛之の小説『さらばモスクワ愚連隊』『蒼ざめた馬を見よ』に影響されて、無謀にもフランスに旅立ってしまったわけです。
1年で帰るつもりが7年になるという、まったくもって、若くなければできない無責任な行動。
パリでは第8大学(今は消滅)、第10大学に席を置きながら、アルバイトでJALのアテンドをしていました。
仕事は北アフリカの日本企業、サハラ砂漠の天然ガスプラント、セメントプラントなどなどで働いていた日本人をオルリ空港に迎えに行きホテルに送り届け、ついでにパリを案内したり、美人のいるピガールのスナックに連れて行ったりしていました。
その当時、日本人が使っていたキャリアは、JALとエアフランスでした。
オルリ空港に行くと必ずといっていいほど、長髪でサングラスをかけスーツで身を固めた男性がいました。
商売敵というより、風貌や印象が怖かったからなかなか話しかけられませんでした。
日本に戻って何年かたったある日、オール読み物だったかの記事で作者紹介の写真を見たとき、オルリ空港にいた人だと思いました。
それは小説家になっている藤田宜永さんでした。
経歴をみるとまさにその通り。
だから、初期の小説はパリやアルジェリアを舞台にしたものが多かったようです。

そんなわけで、JALのアテンドを辞めてしばらく経ってから、チュニジア、アルジェリアに約2年くらい出稼ぎにいきました。給料がいいというのが最大の理由です。
北アフリカでの生活はパリや日本では体験できないことばかりなので長くなるので省略します。
3カ月に1回の休暇でパリに行ったとき、こんな行き当たりばったりの生活に疑問を感じはじめたのです。
食べていくには十分でしたが、なにか物足りなさを感じていて、ついに日本で思いっきり働きたいと決断しました。
パリの生活はとても楽しかったのですが、それだけでずっと滞在するわけにはいきません。

帰国後、運よく雑誌の編集職にありつき、編集長が辞めたので私が編集長になりました。
帰るのは夜中の0時は当たり前の毎日でした。
まさに、思いっきり働きたいが現実になりました。
その後、知人の知り合いが女性誌をだしたいというので、そのスタッフに加わったのですが、主催者がけっこう胡散臭い人で、案の定、途中でボツになってしまいました。
その主催者は、何年か前に新聞を賑わせていました。やっぱりって感じです。

仕事がなくなり、さてどうしようかと思っていたとき、雑誌の発売元になるはずだった出版社の社長に「どこも行くとこなかったらうちでやらないか」とありがたいお言葉をいただき、入ることになりました。

それは、麹町にある出版社で、コピー機もない会社でした。
それをみて、私のスイッチが入りました。
「コピー機を入れるぞ! そのためには稼がないといけない!」
そこで、いままでやったことがない書店営業をはじめたのです。出版流通のシステムとして、注文分の書籍は、翌月入金されるというこもあり、せっせと注文取りに歩きました。なんせ、給料分は稼がなくてはいけなかったわけです。
コピー機がないというのは意外に不便なもので、リースするために稼がないといけなかったわけです。慶応出身の社長の顔が広かったために、いろいろな人を紹介してもらいました。その中で、すぐに仕事が入りそうな広告代理店を紹介してもらい、日刊ゲンダイの見開き全面広告のデザインをしたり、パンフレットや冊子を作ったりしていました。
そこそこ収入が増えたところで、社長に「コピー機を入れていただけますか」と交渉したところOKがでました。
運よく、そのビルが立ち退きになり、立ち退き料がわりとどっさり入ったようでした。

新しい事務所に引っ越してからも同じような毎日でした。
書店営業、制作物、会社に戻ってきて今まで考えていた企画をまとる。引っ越して2~3カ月目に「医者からもらった薬がわかる本」を出版したのでした。いまでは、各社出版していますが、その当時は1冊だけ。まして、売れるかどうかわかりませんでした。取次の反応も、東販(いまはトーハンですがその当時はこの名称)は、これは売れないよ。日販は「これ売れるよ!」。ほかの取次店も売れると言ってくれました。もちろん、実際に売れないとどうしようもありません。
で、初版は7000部スタート。
私は本の企画でハワイにまで取材に行けるようになり、取次搬入が終わったときにハワイに旅発ちました。
取材が終わりホテルでのんびりしているときに、社長から電話がありました。
いきなり、「秋山さん! 大変だよ!」
会社が倒産!?
理由を聞くと、書店に本が並んだその日に書店から注文の電話が殺到したのでした。
人手が足りないので、息子さんを動員して、電話応対や注文のスリップ(注文の短冊)の仕分けをしていたそうです。
私も一安心でした。
内心、会社の借金も少しは少なくなると思いました。
案の定、半年も経たずに借金はゼロになったようです。
それもそのはず、1800円の本が1カ月に50万部売れれば、数億円になります。
ハワイから戻ってきて、社長のうれしそうな顔を見たのはうれしかった。
机の上に注文のスリップが山積み。
それからというもの、企画をどんどん考え出版しました。

ところが、数年経ったある日、社長が出勤してくると、「大変だよ!」と手を見せてくれました。
手の平が黄色いのです。白目も黄色く濁っていました。
こりゃ大変だと思いすぐに知り合いの医者に電話をし、クルマで連れて行ったら即入院でした。
すい臓がんでした。
それから、1年も経たずになくなってしまいました。まだ50代だったのでとても残念でした。
社長は釣りが趣味で、冬になるとフグを釣りにいって、一夜干しにして持ってきてくれたその味がまだ忘れられません。ものすごく美味しかった!!

私が入社したときは2人だった会社が、その時は従業員が6人になっていました。コピー機はもちろん、パソコンまでありました。
おまけに、2フロアー借りていたのです。
主人がいなくなった会社に、同級生の商社マンが入ってきたのですが、ちょっと胡散臭いので、私は思いきって、辞めることにしたのです。

1991年3月28日新会社の登記。
三軒茶屋のワンルームマンションが創業地です。
会社員時代、社長に教わった仕手株を社長にお金を借りて買ったら倍以上になり、さらに次の仕手株と次々とやりました。「秋山さん、もう売った方がいいよ」「じゃあお願いします」でけっこうお金が入ってきました。トヨタGTS-Tの新車も買えました。
そこで貯まったお金が資本金になったわけです。

創業して3カ月目くらいでしょうか。会社員時代に知り合った人から電話があり、トーマスクック・オセアニアでガイドブックを作ってくれないかという話がありました。トーマスクックといえばイギリスの世界的なガイドブックの会社です。
「え、まさか!?」と思いましたが、流れに身を任せようと思い、打ち合わせをしているうちに、現実になりました。
印刷は、ブリスベンで色校に立ち会わなくてはいけなかったのですが、なんと、日本出発が12月29日。「あれー、お正月がない!」
その翌年は印刷がクアラルンプール(KL)になり、またまた年末にギリギリに出発。
その時は、現地の製版屋さんで色校のチェックでした。修正はストリップ処理(フィルムを薄く剥がして貼り付ける)とかいろいろやりました。
現地では大日本スクリーンを使っているのに色がかなり汚い。
「ま、しかたがない。日本の印刷は世界最高だから、比べてもしょうがない」
すぐに納得して、できる限りいい状態になるようにチェックしました。
約2週間滞在して帰国。
到着して日本そば食べるのが楽しみでした。
KLから20㎏くらい離れているので、日本料理屋はもちろんないし、現地のお店だけだったので日本食には飢えていました。

年末に出発して3週間くらいで帰国したりということが3年くらい続きました。
そうしたところ、オーストラリアで知り合った人が日本人向けの生活情報誌をつくるというので、お手伝いさせていただきました。

フリーのときに知り合った、平河町に事務所を構えていた装丁家が「こっちにくればいいのに」といって、不動産屋を紹介してくれました。
平河町の事務所は清水ビルという警視総監邸の向かい側で隼町。
隼町の町内会には、国立劇場、最高裁があり驚きの場所でした。
ところが、このビルの近くに地下を通っている高速道路の排気筒があり、事務所のビニールが黒いすすみたいなもので汚れるので、すぐに引っ越しを決断。
次に移ったのは平河天満宮脇のマンションの一室でした。
何年か経つうちに住所がマンションではあまりかっこよくないので、探したら平河天満宮の真正面のビル、一番最初に入っていたビルの隣がみつかりました。
その数年後、知り合いからうちがはいっているビルに空きができたからといってオーナーを紹介してもらい、現在の事務所に移ってきたのです。
偶然ですが、平河天満宮の斜め前。不思議なご縁です。
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